日本の個人情報保護と米国のプライバシー尊重の違い
デジタルフォレンジック研究会という団体が発行するメールマガジンのコラムを輪番で寄稿しており、「割れ窓理論(Broken Windows Theory)の引用可能版」という記事を書く予定でした。しかし、それの執筆中に興味深い時事話題が出たので、その話題に触れて「日本の個人情報保護と米国のプライバシー尊重の違い」という記事に変えることにしました。その記事を以下に紹介します。
日本のテレビ局が、米国で活躍している日本人野球選手の自宅を本人から事前許可を得ず外観や空撮を撮影し近隣住民にインタビューするなどして紹介する映像を放映したことがありました。このことが問題となり、選手の所属球団がこのテレビ局のメディア取材パスをはく奪しました。この選手への取材のみならず、球団への取材についても、いわゆる出入り禁止にしました。
これの何が問題だったのかについて、あまり正しく説明されていないようです。
日本人的には、住居の外観や空撮による撮影と近隣住民のインタビューとを比べると、前者の方がより問題視されたのだろうと思われていることが多いかもしれません。しかし、米国においては、これはほぼ逆の問題意識だということが認識されていないようです。さらに、よくある説明では、例として、自宅の場所を特定できるようにすると本人や家族が強盗などの危険にさらされるからではないかというものです。しかし、これが直接的な問題であるとすれば、著名人は自宅の場所を秘密にして、近隣の住人からも顔を見られないような生活をするしかなくなります。実際には、著名人の住所は薄々知られているし、近隣の住人は知っている状態だと考えるのが現実的です。
今回の件でも、選手の自宅の場所についての情報をテレビ局が明らかに違法な手段で入手したのなら、日本のテレビ局といえども放映することはなかったと思います。その意味では、どういう手段だったかについて知りませんし、その手段がグレーであったかもしれませんが、明らかな違法ではなく入手したはずだと思います。自宅の場所についての情報とは、住所のことです。住所は、個人情報なので、選手の個人情報を何らかの違法ではない手段で入手した上で、取材活動をしたことになります。
そこで、この問題を個人情報保護の観点で整理してみます。
この問題はプライバシーの侵害であるとされたことから、近隣住民にインタビューすることが、近隣住民が迷惑に思うというプライバシー侵害なのではないかと思うかもしれません。(実際に、そういう説明がされていることがあります。)しかし、それは住民にとっては迷惑行為ですが、プライバシーの侵害ではありません。そうではなく、米国においては選手本人へのプライバシー侵害と認識されるのです。近隣住民へのインタビューが、選手のプライバシー侵害?と思うかもしれないので、その説明を本稿でします。
本人が、自分の個人情報である住所を、自分の意に反した使い方をされたらプライバシーが侵害されたことになります。住所が無断で取り扱われることが直ちにプライバシーの侵害になるわけではなく、その使い方によってプライバシーを侵害したか否かが問われるのです。
これは当然のことです。そうでないと、近隣の住民がその住所のことを話題にするだけ(=住所を無断で取り扱っただけ)で、プライバシーの侵害になってしまうわけで、そんなことはありません。
では、なぜそれがプライバシーの侵害となったのでしょうか?
住所が、インタビューする地域の特定に使われ、その近隣に住んでいる人にインタビューするために使われたことになります。すなわち、住所が、近隣住民のインタビューのために使われたということになります。
これをプライバシー侵害の有無の観点でみると、自分の住所が近隣住民のインタビューのために使われることは、本人の意に反したかどうかということになるのです。そのように考えると、どのような手段で住所を入手したのかは定かではありませんが、それが近隣住民へのインタビューを目的としていたとは考えにくく、よって、意に反したであろうことは明らかとなります。
つまり、選手の自宅の近隣住民へのインタビューは、選手のプライバシーを侵害したと米国では認識されるのです。
あえて、日本の個人情報保護法的表現をするならば、選手の住所の利用目的に違反したということです。
ここで説明したことは、日本の個人情報保護と米国のプライバシー尊重の違いとして見ることができます。個人情報については保護という言い方をしますが、米国ではプライバシーを保護する(protect)という言い方は限定的で、プライバシーを尊重する(respect)と表現します。プライバシーを尊重するための手段として、プライバシー保護という言い方がされることはあります。
尊重と保護の違いですが、別の話しだと少し直感的にわかるかもしれません。個人の意見を尊重するという表現はしますが、個人の意見を保護するという表現はしないことに似ています。個人の意見を尊重するために、その意見に関する情報の一部を保護することはあるかもしれません。それと同様に、プライバシーを尊重する手段において、プライバシーに係る情報を保護することはありますが、プライバシーは保護されるものではなく尊重されるものです。
冒頭で、予定の記事の内容を変えたと書きましたが、実は、このプライバシー侵害の話しは、割れ窓理論につながります。
近隣住民へのインタビューを放置すると、自宅への強盗や家族の誘拐につながるかもしれないのです。
割れ窓理論は、軽微な犯罪を放置すると、犯罪行為全般への「共同体の障壁」が低下し、甚大な犯罪につながるというものであり、よって、軽微な犯罪を放置しないことが、結果的に甚大な犯罪の予防になるという理論です。
割れ窓理論では、街の落書きを放置すると、その街で違法なこと又はマナーに反することの共同体障壁が薄れ、やがて、強盗殺人などの重要犯罪につながるとしています。一見すると、落書きを放置すると殺人事件が起きる?と思うかもしれませんが、これは、犯罪は原因論に加えて機会論でも考えるべきという割れ窓理論の本質になるのですが、今回は、その説明をしないことにしたので、それはまたいつかの「機会」に紹介します。
話しを戻すと、住所の不当使用という軽微なものがインタビューで、甚大なものが選手やその家族への強盗や誘拐なのです。そのため、近隣住民へのインタビューを選手本人の意に反して行うプライバシー侵害を放置することは、それが強盗や誘拐につながる連鎖を断ち切るためには、容認してもらえないのです。このことが、日本のテレビ局ばかりではなく、おそらくほとんどの日本人にはあまり認識されていません。
本稿の前半で「選手の住所の利用目的に違反した。」と書きましたが、日本法ではこれに違反しない可能性が実はひとつだけあります。それは、利用目的が第三者への提供であった場合です。しかし、これを利用目的とした上で個人情報を入手した場合に、その第三者の利用目的に制限がなくなるという解釈がされるのは、米国に限らず世界中で日本だけの解釈であることはあまり知られていません。米国では、プライバシー侵害は、個人情報の使われ方が問題視されるため、その第三者による使われ方も継承して問題となります。したがって、第三者が第三者提供を目的として個人情報を入手したからと言って、その使われ方の制約から免れないと解釈されているのです。
昨今の個人情報に関係する先進技術のひとつにはAI処理がありますが、上記の背景により、日本以外の海外においては、個人情報の利用目的の制約から本人が切り離されることはありません。一方で、日本では本人がひとたび「第三者への提供」を拒否しないと、本人の意は切り離されてしまうのです。本人がそれを拒否しないことがうかつであると言ってしまえばそれまでですが、海外では、個人によるその非があったとしても、プライバシーの尊重はそれに勝って尊重されるべきものとされているのです。なぜなら、それは人権として位置付けられているからです。
これが人権なのか、あるひとつの権利なのかの違いです。仮に自殺を欲していると思われるような言動や選択をしてしまった人を、殺してよいのか悪いのかという違いだと思うとわかりやすいかもしれません。
この個人情報保護の制度解釈(実際の制度意図がどうであるかより、一般にどう解釈されているか)は、AI開発の拠点として有益であるとされています。端的に言えば、プライバシー尊重が人権ではない日本で開発すれば、プライバシーを尊重することは、第三者提供を利用目的とすることで回避できると思われている面があるからです。個人情報の1次的取得者は海外と同程度に利用目的制限がありますが、1次的取得者が第三者提供を利用目的として同意を取りさえすれば、2次以後の取得者は弱い制約で利用することがグレーではあるけれど明らかな違法とはならないのは、日本だけなのです。
第三者への提供を利用目的とできる日本の個人情報保護法について、どう思われたでしょうか?これを読んでいる人は、必ずふたつの側面を持っています。それは個人情報の本人としての立場と、個人情報を使って企業活動などをする利用者としての立場です。後者の立場としては、第三者への提供を利用目的にすることができる日本の仕組みは魅力的で甘い誘惑しかありませんが、一方で、本人としての立場でも見て、さらにはあなたのお子さんや大切な人の立場でも見て、それを安易に使うことの是非について考える機会に本稿がなれば幸いです。
なお、本稿では、選手名、球団名、テレビ局名について触れませんでした。「割れ窓理論」はとても有名な理論であるにもかかわらず、その原典である論文への引用を目にした人や、論文原書を読んだ人は、あまりいないのではないでしょうか?それはその論文が、あまりに人種差別やその他の差別的表現が多かったからと推察しています。しかも、仮に「罪を犯しやすい人、たとえば、○○人」という書き方であれば、○○人という例示だけを省いてギリギリ引用ができるのですが、単に「○○人」と書いている箇所もあるために、直接引用すると「○○人は、罪を犯しやすい人」と引用者が解釈したことになるという欠陥があるからです。
その欠陥を払拭するために、ぼくがその解釈をしたことにして、割れ窓理論の差別表現の悪役を引き受けることで「引用可能版」を用意しようとしました。ちなみに、欧米人がこれをすると解釈は個人の責任にしかなりませんが、日本では文脈で内容を解釈するという日本語ならではの特質があるので、ぼくが解釈したわけではなく、文脈として推定しただけと言い訳できるのは日本人だけです。しかし、本稿の時事話題がタイムリーだと思ったので、差し替えました。
決して、悪役になることに二の足を踏んだのではありません・・・
6月 27, 2024 | Permalink
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