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2013年5月11日 (土)

少子化対策は手段であって、解決に必要なのはビジョンである

内閣府が少子化対策のひとつとして、女性手帳というのを提案して物議をよんでいる。

否定するほど悪いアイデアではないと思うが、それがあまりに部分的なことであり、全体が示されていないために、それ以外のことは何もしないつもりか?という風当たりになっているように思う。
恐らく、立案した関係者は、それだけで考えているわけではなく、まずはすぐにできることからを公表したのではないかと思うが、この「まずはできることから」が実は問題であるとも思う。

全体を考えた上で、まずは実施できることから実施する。というのはよいが、全体の考えがまだ固まっていない段階で、実施できることから実施するというのは、裏目に出ることもある。

以下の記事は、約1年前に、消費税増税のときに書いたものだが、その内容が、この少子化対策の件にそのまま当てはまるようなので、再掲してみる。

ここからは、ビジョンの重要性~「孫と元気に遊べる社会」を例題に考えるの再掲です。

最近、日本の政策に足りないのはビジョンだと思う。
手段みたいなことばっかりになってる。
これはマスコミも悪い。
ビジョンを出しても、それの実現方法をすぐに政治家に求めようとする。
ビジョンが選択され共感が得られれば、方策は行政が考えることになるし、ビジョンの実現のために国民も理解・協力しなければならない。

政治家は、マニュフェストとか綱領とか言ったりするが、文書の表題はどうでもよい。
その中身が、ビジョンになっているか否かを見極める能力が国民に問われている。

ビジョンとは何か?
普段、カタカナ言葉を使うのはよくないと思っているが、今回は、あえて、このままにしておく(笑)

そんなビジョンの重要性について、ビジョンの例を挙げながら考えてみたい。

国民はまずビジョンに共感できるかどうかの選別が、まずあるべき。
そして、それがまったく実現不可能なようなことなのかを、ある程度は確認すべき。
実現不可能なビジョンは、妄想に過ぎないのは確か。

でも、ビジョンに相当するようなことが実現可能かどうかは、やってみないと実はわからないことも有り得る。

逆に実現方法がすぐに検証できるような内容は、短期先のことでしかなくなる。
その結果、中長期、長期のビジョンが欠乏することになって、短期的なビジョンしか示されない。とすると悪いスパイラルに陥っていることになる。

ビジョンをカタカナ言葉のままにしているので、それが漠然としたままだ。
そこで、ビジョンの例を考えて、少しビジョンとはどういうことかを考えてみる。

たとえば、
「孫と元気に遊べる社会」
ということにしてみよう。

これは一見、ほのぼのとした抽象的な字句だが、実はそうでもない。
もしかしたら、辛らつですらあるかもしれない。

これの意味は・・・3点ある。

1.孫がいること。
このビジョンの社会では、子供がいて、その子供にも子供がいる必要がある。
とにかく重要なことは少子化対策だ。

2.元気でいること。
孫がいる年齢になっても、疾病への予防を心がけた生活をして健康でいる必要がある。

3.遊べること。
子の親が、自分の子と、自分の親を養う連鎖を築くことで、自分が働けない年代になったら、わが子に養ってもらう必要がある。

実現手段としては、
・医療保険での予防をより重要視し、
そして、
・年金制度を縮小する
・終末医療保険制度を縮小する
というのを、ここでは例としてちょっと考えてみたい。

今の社会保障制度を縮小するとだけ書くと、ネガティブな表現になってしまうが、
ビジョンとしては、
「孫と元気に遊べる社会」を作る。
と書いてみると、なんとなく明るいようにも見えるし、実際にも明るい社会だ。

このビジョンから導き出した実現手段を順に説明してみる。

医療保険での予防をより重要視することとは、たとえば、
定期健康診断を受けている人とそれをサボっている人に、その後の社会保障費使用の差があれば、たとえば、定期健康診断を受けているかで本人自己負担率を変えることなども考えられる。
この辺りは専門家ではないので、定期健康診断の受診が役立つのかわからない、何が具体的に有効かわからないが、何らかの予防を重要視するように仕向けるための仕掛け作りを重視することが重要だ。
こちらについては個人を( 必ずしも特定ではなく)同定することができるID管理は必要だ。
つまり、定期健康診断など何らかの事象と、その人が使用した社会保障費の相関を分析できるようになることが必要だ。

年金について。
もうじき、収入より支出が増えて備蓄がなくなり破綻すると言われているが・・・
そんな静的な話しではない。
払った分が戻らないことが確定してしまっている現状で破綻している。
現状で既に、1960年生まれで、80歳まで生きれば、元が取れる限界で、それ以降の世代は、もう元は取れない。
この状況では、今後、不払い者が増えることを抑えられなくなるのは自明。
年金を払わない人への不利益は、「払わないと年金もらえないよ」ということしかないのに、正しく払っても戻ってこないのだから、払わない人を止められない。
不払い者が増え始めると、備蓄が減る速度が加速し、ますます元が取れないことになり、いっきに誰も払わなくなっても、まったく不思議ではない。

それなら、これを抜本的に見直すこと(そうするかは別として)の検討を始めた方がよい。
いまもらっている人を減額しつつ、これからもらう人も減額して、比較的中長期のたとえば20年くらいかけて縮小することは検討の選択肢としてあってよい。
そのような縮小は、現在、年金だけを頼りに生活している方々に配慮した、長期間での撤廃とすることが必要となる。逆に言うと、そのくらいの期間でどう移行するかの検討をしないと、抜本的なことは変えられないという制約の中での議論しかできず、自ずと何も変えられない、変えないということにしかならない。

そして、終末医療にかかる保険手当てについて。
終末医療とは、回復せずに最後に死ぬまでの最後の医療のこと。
これが所得に関係なく皆保険(かいほけん)で最後まで賄われる国は日本くらいしかない。
逆に言うと、他国では、ある上限に達すると打ち切られる。
つまり、自費で払えない人は、医療を受けられない。つまり、死期は早まるということ。
延命措置を受けるためにお金を払える人は長生きできて、お金がないと受けれない。ということになる。

これは一見、惨いように思える。
だけど、これは、あくまで終末医療のこと。それは、もう回復することはない状態ということ。死を待つだけで回復はない。それが、終末医療。

この終末医療、本当に本人にとって幸せなことなのかは疑問視されている面もある。
尊厳死とか消極的安楽死とか言われたりもする。
そんな終末医療に、日本は、他国より多くの費用がかかっている。
このことも、社会保障費用の支出を増やす一つの要因になっている。

これは病気になったら死ね。と言っているのではない。
現状のように、病気になったら医療や介護を受ければよいと甘んじる前に、まずは病気にならないようにする予防にも自らのお金をかけることを最重要視するように、仕向けていくということだ。
保険会社が、そのことに多額の広報宣伝費をかけていることからも、予防にお金をかける方が経済原理としても合理的であると考えられる。

こちらも、するならば数年などの短期ではなく十分な期間をかけて縮小などしていく算段が必要。
ただ、こちらは予防にシフトできれば、むしろ支出は自然と減るのかもしれない。

では、歳を取ったらどうすればよいのか?

答えは単純で、自分の子供に面倒を見てもらうことを前提にすることだ。
子供がいなければ、面倒をみてもらえない。

この状態を数十年かけて築き上げると、少子化対策に直結する。

まず、子供を作ることは老後のために必要なことになる。
養育費は、まさに年金の掛け金代わりだ。
現状のモデルでは、若年が老年を養うということにしかならない。その点は、こちらも同じだが、それが一般論ではないことがポイントだ。
若年が老年を養うのではなく、子が自分の親を養うということに代わる。
前者より後者の方が、動機付けには有効なはずだ。
そもそも、その子は、親に養ってもらって大人になるのだから。

親は自分の親を養いながら、自分の子も養う。
親が養い損のようにも思えるが、自分が養った子が成長したら、そこで初めて、養ってもらえることになる。
その連鎖が続いていく。
だからビジョンは、「『子供』と元気に遊べる社会」ではなく「『孫』と元気に遊べる社会」とする必要がある。
そこには年金記録も年金機構も必要ないかもしれない。
子供を立派に育てたことが、将来自分が養ってもらえることの証になる。

そう。
日本に今もっとも必要なことは、少子化対策であり、それを優先するために、すべての政策が少子化対策に貢献するという全体像になることを、この例では示唆している。

そのような全体像なくしては、小手先の消費税増税とかをしても、焼け石に水だ。

(先日、知人から飲み屋で聞いたところによると)
いま、独身女性の不倫は少なくないという。
フランスが少子化対策のひとつとして、婚姻制度をやめて成功しているように、日本も、少子化対策のためなら、これまでの常識を否定してもよい。というか、そのぐらいしないと、現在の年齢別人口逆ピラミッド構成は、絶対に正常化しない。
婚姻関係が他の制度上必要なら、一夫多妻制でもよい。それでは女性が納得しないというなら、この際、多夫多妻制でまずは理解を得ることを優先して、なんでもよい。
不倫女性で子供が欲しくない人は、それは仕方ない。でも、生めるし、生みたいけれど、不倫だから生まないということであれば、その障害になっていること。生まれた子供が社会的に差別されたり不利益になるということが障害であれば、その障害を徹底的に排除して、とにかく出生率をあげるためにできることは、なんでもやる覚悟が必要だ。

さらに、単なる少子化対策で出生率があがればよいのか?
そうではない。
育て方も、親を養う努力をしようとする大人になってもらうことが、親の責任になる。打算的に言えば、親はそうしないと、子に養ってもらえなくなるから、そうするしかない。
本来は、国のこと、社会のことを考えてくれる大人になってもらう必要があるわけだが、
恐らく、親を養うことを当然と思う大人になってくれれば、その延長線上に、社会や国のことは考えてくれるに違いない。

ただ、これは全世帯が子供を生むことを強いるものではない。
そもそもそれができるのであれば、現在の制度は破綻しなかった。
子供を生むかどうかの選択肢は、それぞれにあってもよいと思う。
ただし、子供を生まない選択をした場合には、自身の老後は、健康で暮らすことになるべく努め、又は病気に備えた財蓄は自身で計画的にする必要があることになる。
その前提のなかで、子供を生むかどうかを選択することはあってよいと思う。むしろ、あるべきだ。

突き詰めれば、少子化はなぜ問題なのか。
個々人において、自ら子供を作らないと判断して、血筋を絶つと決めたなら、それは仕方のないこと。
他人がとやかく言うことですらないかもしれない。
しかし、社会保障制度が破たんするというのが、社会問題ということになる。
これは端的に言えば、子供を作らない人の老後を、他人の子供が面倒みるモデルの限界と言える。
老後の自分の面倒を、自分で備えるというモデルにすれば、その「備え」の手段として、「子供を作らず、預金を貯めて、他人の世話にならない」のか「子供を養って、その子供の世話になる」のかなどから選択するという中で、子供を作らないという選択の位置づけが決まる。
それでも、なお、本人の想定外のことに、ある程度社会が保障する制度は残ってもよい。というか残さないと社会とは言えなくなるかもしれない。しかし、そのように限られた社会保障制度であれば、あまり大きな負担とはならないはずだ。

もっと書きたいことがあるが、長文になったので、戻ると・・・

ビジョンの例としてあげた 「孫と元気に遊べる社会」は、老年向けのビジョンということになるかもしれない。
ただし、これだけだと若年向けのメッセージがないので、それも同じような方法で掲げてみたいものだ。

しかし、ここで述べたかったことは、この例示したビジョン「孫と元気に遊べる社会」を提唱することではない。
ビジョンの実現方法として書き出した方策も、それを提唱しているわけではない。

上記の具体策の例は、あえて極端な例をあげた。内容の是非を問われれば異論もあるだろう。
しかし、ここではその具体策を提案しているわけではない。(そもそも、それの専門知識はぼくにはない)
どういうアプローチで、それらの具体策を導き出すのかという流れの例として出してみた。

そのような順番で物事を考える必要があるのではないかということ。が、言いたかったことである。

「ビジョンが重要」ということ、「国民が選択すべきはビジョン」であるということが大切だと思う。
政治家が示す、「文言や選択肢がビジョンになっているのか?手段でしかないということはないのか?」を見極めるために、ビジョンに関心を持つということ。を述べたかったのである。

数十年後という長期のビジョンがなければ、その数十年後には、数十年かけないと解決できない課題が累積することになる。
数十年かかる改善は、今日始めれば、気の遠くなるような話しだが、数十年後に解決できる可能性がある。
しかし、始めなければ、百年たっても解決しないことは明白だ。

長期のビジョンを共有して、長期の課題に取り組むことが、今、求められているのではないかと思う。

5月 11, 2013 |

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